チャイムが鳴ったから顔を上げたら、もういつのまにか日本史の授業は終わっていて、古文の先生がドアを開けて教室に入ってきた。「座れよー」という先生の気のない声。それにもかかわらず多数の女の子に囲まれて、盛り上がってる斜め前の席をわざと見ないようにして、窓側の一番後ろの席を見る。空席。あれ、今日は朝からめずらしくいると思ったのにな。そう思って、教室に帰ってくるクラスメートの間を逆流して、は教室を出た。






シン、と静まり返って時折聞こえてくる授業の声がかすかに響く、学校の中を一人でゆうゆうと歩くのはとても気持ちがいい。そとからは昼特有のあたたかい光に徐々につめたくなってきた風が心地よい。おあつらえ向きに、上階の教室の二年生は研修旅行とやらでからっぽだった。軽くのびをしながら、ゆっくりと歩く。トントン、とまた窓のない薄暗い階段を上ってドアのとってに手を掛けた。









「あっくーん」


「あーっくつー」


姿が見えないので声をすこし張り上げた。いるはずなのになあと思っていると「んだよ」と声がしたのでにんまりと笑う。





ドアからふりかえって上を見上げる。逆光。目を細めて、手をかざすと影がぼんやりと浮き出てきた。「あっいいなあ亜久津、給水タンクの上」特等席じゃん。そう言うと亜久津はへっと笑って、煙草を咥えた。「バカと煙は上にのぼるっていうもんねえ」自分も給水タンクのハシゴに足を掛け、煙草の煙を目で追いながらそう言うと「喧嘩うってんのか?」と面白そうな声で言われた。半分まで登って、よく小さな子供がするように腕を前に出すと、亜久津は「自分でのぼりやがれ」と意地悪そうに笑って言って顔をそむけた。ちぇっ、と言いながら、登って亜久津の横に座る。「まあ、亜久津はともかくとして」


「ここをいっつも特等席にしてるアイツは正真正銘のバカだけどね」
「ハ、ちげえねえ」















もう一ヶ月になる。いつものようにアイツと亜久津と、健太郎と4人で帰ってて、その日は部活がなかったからいつもの公園に立ち寄った。亜久津と健太郎は飲み物を買いに行って、滑り台のてっぺんにあたしが、階段部分の下の方にアイツは座ってた。

「まだかなー」
「まだかなーって、さっき行ったばっかじゃん、あっくんたちー」
「あーはやく午後ティーのみたいのみたいのみたい」
「あはは」
「あははじゃねー!」
「うわ!ちょっとチャン、砂落とさないでよ!!」
「フハハ!目潰しの術!!」
「む、むごい!!」


「・・・おそいなー」
「おそいねえ・・」
「だよねーおそすぎるよねー!もー健太郎は帰ってきたら鼻フックの刑だ」
「ねーチャン」
「んー何ー」


「もしも俺ができるだけ遠回りして帰ってきて、って二人に言ってたらどう思う?」



何が、と聞く前にもうアイツの顔が目の前にあった。何が、って訊くほどあたしはバカじゃなかったから、口をつぐんだままアイツの目を見た。









「すきだよ、チャン」、つきあって。



















「んー・・まぶし・・」
薄く目を開けただけなのに光にくらんで、また目をきつく閉じる。
「おー起きたかよ」
近くで声がしたので、上半身だけ起き上がった。なんだか地面がゴツゴツしていたので、ああそうか給水タンクの上に来たんだっけ、とまだ活動しない頭を揺り動かす。
「んあ、れ?ねてた?あたし」
「もたれかかってくるなり爆睡たぁいい度胸してんじゃねえか」
「あは、マジで?」
「・・・お前と話してると調子狂う」
「そう?いつもの亜久津だよ」そう言うと亜久津は私の顔を見て呆れたような、でも少し笑って「…お前らほんっと似たもん同士だな」と言った。「あーあーそれだけは言わないでよ。同族嫌悪でナルシストだからさ、」あたしもアイツも。そう言うと亜久津はそうかよ、と言ってまた煙草に火をつけた。










「…俺にするか?」
風がビョウ、とあたしたちの間をすり抜けたけれど、聞こえないふりをきめこむには小さすぎた。
「あれ?」「んだよ」「あたし今亜久津に口説かれた?」「…少なくとも俺は口説いたつもりだったが」








亜久津らしくない、とは言えなかった。彼がどういう人間かは多分亜久津自身よりあたしがよく知ってたし、あたしのことも亜久津はあたしより知ってるんだろう。気の許せる奴、つまりあたしの前では亜久津はちょっとだけ、弱る。


あれから四ヶ月経って変わったことなんて、ない。付き合って二週間ぐらいはアイツはあたしにべったりだったけど、一ヶ月すると飽きてきたのか、いつもどおり女の子たちに囲まれてバカみたいに笑ってた。私がそれに傷ついたかといえば、それは自分でもよく分からない。アイツの性格はやっぱり私がいちばん良く知ってるし、(でも私の性格なんてアイツはこれっぽっちも知っちゃいないのだろうけど)諦めてたしどうでもいい気もした。キスの回数も、手をつなぐ回数も減った。







「あいにくあたしは目の前の幸せに逃げることをよしとしないもんで」そう言えば亜久津は溜め息もつかずに言った。「お前、そんなんじゃ一生幸せになれねえぜ」「…うん、そうかもね」「俺なら後悔させねえよ」「・・うん、知ってる」

アイツは、バカだ。なにもわかっちゃいないくせに、わかったふりをしている、バカだ。それをまた隠そうとしている、バカだ。したたかだ。あざとい。無慈悲だ。でも弱い。正直だ。・・・そして、甘い。
そんなところに気づいているのはきっとこの世界中であたしだけなんだと思う。大げさだけど、アイツを救えんのも、あたしだけだと思う。自惚れだと言われようがかまわない。自信を持っていえる。アイツがどう思っていようときっとアイツにはあたしだけしかいない。そしてあたしにもアイツしかいない。





「・・・アイツにはあたししか、いないから」
「俺にだってお前しかいねーんだよ」
「・・・ごめん」
「・・・」
「・・・」
「・・すまん」
「いいよ、こう言ったらあたしのことだから折れるかもしれないって思ったんでしょ」
「・・ああ」
「ごめんね」














ごめんなさい。ごめんなさい、ほんとは全部知ってたんだよ。あざといのは、したたかなのはあたし。
あの一ヶ月と二日前、憎らしいほどに綺麗な橙色のアイツの髪が風になびく隙間から、呆然とあたしたちを見てる亜久津をあたしは、アイツとキスしながら見てた。冷めた目で見てた。亜久津のことだから全部知ってるんだろうね。そういうところも含めて、あたしのことを、











2006/11/30