空港ならではの高揚感を含んだ雑踏の中、気づけば私は人一人分のスペースを山本と自分の間に開け、ベンチに座っていた。ざわざわ、とざわめく周囲。空港のロビーは人でごったがえしている。何処を見ても笑顔笑顔笑顔、笑顔。どう考えたって私たちはこの場所に不釣合いだと思ったが、そんなことを気にする人は一人としていない。いや私がいるか。ともかく横に座る山本の顔をちらりと盗み見た。感情の読めない彼の表情は今更で、本日何度目か分からないため息はつく気にもなれない。









『俺イタリア行く』
と聞いた時は冗談かと思った。いや、山本イタリアへ行くということについては私はどうでもよかったしこいつのことなど知ったこっちゃないのだけれど、そういうことを私に報告してきたという事実が冗談ではないかと思ったのだ。
「ふうん」
携帯電話を耳と肩にはさみながら、装うまでもない無関心を貫き通した。そんなことより、塗りかけで半乾きのペディキュアの上に大きなラメをどこに配置するかのほうが私にとって大問題だったのである。
『で、それ明日なんだわ』
「私そんなこと尋ねてないんだけど」
『あれ?そだっけ?』
こいつの人の話を聞かないところは今更すぎる。話を聞かない、というか他人のことを考えない?世間じゃそれを自己中心的と呼ぶけれど、私も全く人の事は言えないのでそこは心優しくスルーしてやることにした。
「で、それがどうかしたの」






『だから明日、俺送りに空港来てくれねえ?』















ゴールデンウイークもそろそろ終わりだ。あと一日二日すればピークを迎えるのだろう人ごみはそれでもかなりの規模だ。あまり空調の強くない広いロビーは夏がもうすぐ訪れると言わんばかりの日差しにつつまれている。
「イタリアは暑いんかねえ」
シャツのボタンをだらしなく開けて、ぱたぱたとそこに風を送り込むようにする山本に周囲の視線が集まるのを感じた。こいつの外見だけはいいことを私は充分理解しているので、見て見ぬ振りをする。ばかじゃないのかあんたたち。ぽーっと見とれてるそこのおじょうさん、こいつが汗の似合うさわやかな体育系男子だとでも思ってる?冗談じゃない。
いらいらする私に山本はん?と微笑みかけた。その笑みで何人の女を虜にしてきたんだろうね?生憎そんなもの通じない私は冷たい一瞥をくれてやっただけでさっさと目線を正面に向けた。
「・・・何怒ってんの」
「怒ってない」
「それ怒ってるって言わない?」
「言わない」
分かってるとでも言いたげな顔でこっちに乗り出し、顔を覗きこんできた。あどけなささえ残る顔は私にとって本気で嫌悪の対象にしかならないってこと、こいつは本当に分かってるんだろうか?分かっててやってるんだっけか。
「あんたねえ、」
皮肉の一つでもはいてやろうかと思った私の口から滑りでた言葉はありえないものだった。









「なんで私をここに呼んだの?」



行った瞬間しまった!と思った。ええ思いました。思いましたとも。これじゃまるで私がこの場にたった一人呼ばれて舞い上がってる思い上がりの女みたいじゃない!だけれど山本はそんなことは意に介さず口を開いた、が、その口は半開きのまま、目線を上に向ける。アナウンスの中に自分の名前を聞いたからだ。ヤマモトタケシ様、至急搭乗お願いします。というアナウンスに山本をガン見した。
「…あ、俺便間違えてたわ」
…こいつやりやがった…!!
おっかしいなあ、と頭を傾げる山本に私は頭を抱える。こいつ、相当のバカだ・・・!
「バカじゃない?!早く立て!早く!」
立ち上がって腕を引っ張るが山本は笑ったまま微動だにしない。
「大丈夫だろーああいうのって結構待ってくれたりするもんだぜ」
「はあー?!大丈夫なわけないでしょあんた一人のせいで飛行機遅れるんですけど!一体何百人に迷惑かけると思ってんだヘラヘラ笑うな立てえぇ!」



手提げ一つない着の身着のままだとしてもボディチェックやらなんやらで時間はかかるし、空港を利用したことが片手で充分足りる私でも、もうこいつが到底予定時刻に間に合わないことぐらい分かる。なおも腕を引っ張る私がふと顔をあげると山本がじっとこっちを見ていた。柔らかい眼差しだ。口元が少し綻んでいることは気のせいじゃないだろう。そこでようやく山本の腕を掴んでるという事態を飲み込んだ私だがそこでいきなり不自然に手を離したりするほど子供ではない。(あのころとは、違う)
「ホラ早く!」
若干さらに強く腕を引っ張りあげると、山本はハイハイと笑って「よっこらしょ」というなんともおっさんくさい掛け声とともにベンチから腰を上げた。












どう見たって急いでいるとは思えない足取りでカウンターへ向かう山本の隣に並んで歩を進める。
「心配しねえでも待ってくれるって」
「誰があんたの心配なんかするか。私は他の乗客の皆さんに申し訳ないだけです」
つれねえなあ、と笑う山本。私が何も言わないで居る。山本は何気ない口調で続けた。






「もし俺が野垂れ死なねぇでもいっかい日本に帰ってきたらさ」






声は静かだった。周りの雑踏から浮いたその声は、それ以外の私の聴覚を否応にも遮断する。






「そん時は俺と一緒に来てくれねえ?」









野垂れ死ぬって、あんたは荷物一つ持たないで何しに行くんだ。という言葉は喉まで出かかった。
「何様のつもり?」
「だよなあ、俺もそう思う」



だよなー、と山本は頷いた。こいつ自分言った事本当に分かってるんだろうか?あんたが白々しくもそんな台詞を吐いた相手は、あんたが随分勝手な自己満足のもと切り捨てた元彼女というなんともよろしくないポジションの女なんだけど。
殊勝な演技でもすりゃ少しは可愛げもあるってもんなのに。いや、こいつの白々しい演技なんか見たらあたしは殴りたくなるか。
返事はしなかった。出来なかった、ともいえる。こいつを甘やかせばろくなことがないし、それに私にだってプライドってもんはあるのだ。随分脆いプライドだけど。









「私はあんたに甘いわね?」
「お前ほど辛口な女、俺見たことねんだけど」
「ワオすばらしい褒め言葉」
ハ、と鼻で笑えば苦笑で返された。山本は立ち止まって私を見つめる。私も立ち止まった。視線をそらすとかしたら冗談ではないあらぬ勘違いを起こされそうなので黙って睨み返した。


「じゃ、行ってくる」
「うっさいさっさとくたばれ」
「くたばったら泣くくせに」


泣かないし。呟いた言葉が山本の耳に届いたかは定かではない。既に歩き出した山本は後ろ向きのまま手をふって、その長身は人混みに紛れて消えていった。
ガラスばりの窓から光が射している。私が顔をしかめて突っ立っているのは、とても眩しいからだ。










2008/04/30
さよならはわない